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2008年09月17日

アリバイ 王険城

こんなことがあったなんて本当にビックリですね。

古くは衛氏朝鮮の王険城で、紀元前108年にこれを征服した漢の武帝が楽浪郡治を置いた。これ以後4世紀の初めに高句麗に滅ぼされるまでは中国王朝による郡県支配の拠点となる。

高句麗の長寿王は427年に鴨緑江流域の集安から平壌に遷都し、高句麗王国の都となるが、668年に唐に滅ぼされた。唐は短期間、平壌に安東都護府を設置して半島の直接支配を図るが、新羅の抵抗により都護府を遼東に撤収した。統一新羅時代の平壌は辺境となって荒廃した。

10世紀に高麗が起こると平壌を復興して「西京」としたが、12世紀には妙清という仏教僧が西京への遷都を主張し、西京遷都運動という仏教対儒教の争いが起きた。妙清は、風水説の混合した高麗仏教に基づき、高句麗の首都であり風水も良い西京に首都を遷し、高句麗の旧領土(満州)の回復の拠点とすることを掲げたが、儒家の反発で葬られ王の支持が得られなかった。1135年、妙清はついに反乱(妙清の乱)を起こしたが、金富軾ら儒家の文官らの率いる軍により翌年鎮圧された。平安エステ反乱私書箱妙清私書箱儒家姫路私書箱

李氏朝鮮時代には平安道の首邑となったが、文禄の役では日本軍が平壌にまで達している。18世紀には、冊封体制下の清との往来の中で、北京にいたキリスト教宣教師からキリスト教が朝鮮の官僚に伝わり、通り道であった平安道はキリスト教徒が増加したが、18世紀末には大規模な弾圧が起こった。また外国勢力が朝鮮周囲に現れたが、平壌では大同江を遡ってきた米国船を官民が焼き討ちするジェネラル・シャーマン号事件が起こっている。

李朝末期の1896年に平安道が分割されて、平安南道の首邑となった。日本統治時代には平安南道の道庁所在地となったが、この頃路面電車の軌道などが整備された。またキリスト教会の数も、信徒の人口に対する割合も増加し、宣教師らから「東洋のエルサレム」と呼ばれ、朝鮮のキリスト教布教の中心地になった。こうしたキリスト教徒は、朝鮮戦争後までに韓国側に移住している人も多い。

1945年にソビエト連邦軍が北緯38度線以北を占領するとソ連軍政の中心地となり、1948年の朝鮮民主主義人民共和国成立により北朝鮮の事実上の首都となった。しかし1950年に勃発した朝鮮戦争で街は破壊され、韓国軍に占領されたこともあった他、アメリカ軍の激しい空爆を受けた。停戦実現後、ソ連の援助で街は急速に復興し、この時期に巨大なパレードを行える「社会主義国」特有の広場が整備され、スターリン様式建築が流行した。1968年には平安南道の道庁機能を平城市に移して直轄市となり、1972年に正式に首都となった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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